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クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン) : ミニ英和和英辞書
クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)[くらいすとちゃーちだいせいどう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
大聖 : [たいせい]
 (n) great sage
大聖堂 : [だいせいどう]
 (n) cathedral
: [ひじり, せい]
  1. (pref) saint 2. st.
聖堂 : [せいどう]
 【名詞】 1. (Confucian) temple 2. church 3. sanctuary 
: [どう]
  1. (n,n-suf,n-pref) (1) temple 2. shrine 3. hall 4. (2) prefix to building meaning "magnificent" 

クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン) : ウィキペディア日本語版
クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)[くらいすとちゃーちだいせいどう]

ダブリンクライストチャーチ大聖堂(Christ Church Cathedral。聖三位一体大聖堂、一般的にはクライストチャーチとして知られ、ダブリンおよびグレンダーロッホ連合主教区大聖堂、そしてダブリンおよびキャセル連合大主教管区の大主教座聖堂、つまり南部大教区の大主教座聖堂)は、キリスト教大聖堂である。ダブリンに2つある中世の大聖堂のうちの古いほうで、もう一方は聖パトリック大聖堂 (en) である。
正式にはアイルランド国教会ローマ・カトリック双方の主教座(司教座)ということになっていたが、カトリックは宗教改革以降はこの大聖堂に司教座を置くことができなくなっており、実際のダブリン大司教座は別のところ(ダブリンのマールボロ通りにある聖マリア臨時司教座聖堂)を臨時司教座聖堂 (en) に置かれている。そのため宗教改革以降はアイルランド国教会のダブリン大主教座のみが置かれ、カトリックの司教座は締め出された形となっている。〔カトリックはクライストチャーチを教区教会に「格下げ」する(言い換えれば司教座ではないと事実上認める)ことと加えて聖マリア臨時司教座聖堂を正式な大聖堂に格上げするか新しい大聖堂を建設するというようなことを定期的に示唆していた。1970年代まで新しい大聖堂の建設予定地としてメリオン・スクエア (en) の中央の広場が存在していた。しかしその場所はダブリン・コーポレーションen。現在のダブリン市議会)に長期間リースされることになり、現在ではこの土地を貸し出した〈ダブリン市民への「贈り物」をした〉ダブリン大司教ダーモット・ライアン (en) の名前を取ってライアン大司教公園となっている。〕
クライストチャーチ大聖堂は中世のダブリンにおける初期の中心地、ウッドクウェー (en) の隣、デームストリートen。名前は我らがマリア様〈Our Lady〉を表すノルマンフレンチから取られている)の終わりに位置している。しかしながら二重車道を建設する計画でかつて大聖堂を囲むようにあった中世からの通りの形は変わり、さらに元々の、迷路のように入り組んだ小さな建物と通りの中心にあるという構造は古い居住地域の取り壊しと道路建設とによって失われた。その結果、大聖堂は中世の構造から移り変わった波止場にそって存在する新しいオフィス街の陰に隠れ、孤立しているような状態となっている。なお、クライストチャーチは3つある大聖堂と臨時司教座聖堂のうち唯一、リフィー川からはっきりと見える。
== 歴史 ==

=== 最初のクライストチャーチ ===
最初の大聖堂は1038年に当時ダブリンを治めていたデンマーク系ヴァイキングの王であるシトリック・シルケンベアード (Sitric Silkenbeard) が最初のダブリン司教であるドナート (Donat)、もしくはドナー (Donagh) と呼ばれる人物のために建造したことにさかのぼる。その当時のダブリン司教区は周りを巨大なグレンダーロッホ司教区に囲まれる小さな司教区であり、カンタベリーに依存している状態であった。
教会はウッドクウェーのヴァイキング入植地を見渡す高地に立てられ、シトリックはそれの維持管理のためにバルドイル (en)、ラセニー (en)、ポートレーン (en)の土地を与えた。〔Dublin: Catholic Truth Society, 1911: Bishop of Canea: Short Histories of Dublin Parishes, Part VIII, p. 162〕当時4つの古いケルト系キリスト教の教会がダブリン周辺に存在していたと考えられ、聖マルティヌスに捧げられたひとつだけはヴァイキング居留地の壁の内側に位置しており、そのためクライストチャーチは居留地内に2つだけある教会のひとつであった。〔Dublin: Catholic Truth Society, 1911: Bishop of Canea: Short Histories of Dublin Parishes, Part VIII, p. 162〕
ダブリン司教はもともと修道院外の聖職者から選ばれていたが、次の司教はベネディクト会修道士から選ばれ、その後1163年、クライストチャーチは後の聖人であり2代目のダブリン大司教であるロレンス・オトゥール (en) によってArrouaise(アウグスティヌス系修道会のルールを改めたもの)の教義に従う修道分院 (Priory of the Regular Order of Arrosian Canons) に変わった。教会はその後宗教改革まで聖アウグスチノ修道会としてその修道院長によって率いられた。修道院長は教区の聖職者の序列の2位に位置づけられ、1541年に宗教改革に基づく構造改革が行われるまで首席司祭(Dean。大聖堂の長)ではなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)」の詳細全文を読む




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